山口県の歴史や文化を日本の伝統文化である畳の素材と職人の技能を活かして表現しました。また、観光名所や山口県公式キャラクターも畳で表現しています。これまで山口県内各地および県外、国民文化祭やまぐち2006、おいでませ山口国体・山口大会2011、世界スカウトジャンボリー2015に展示し、山口県および地域社会の発展と歴史文化の理解の一助になったものと自負しております。展示した作品は度々テレビや新聞にも取り上げていただき大変光栄に存じております。下記の「作品一覧」項目では作品の紹介とともに関連する文化財や観光地を紹介致します。
【YAB山口朝日放送】 | Jチャンやまぐち-技あり!やまぐち 2015年 5月20日放送 放送概要 ※外部サイト |
【KRY山口放送】 | 熱血テレビ |
【NHK山口放送】 | ゆうゆうワイド |
【山口ケーブルビジョン】 | 藤原バナナ店 |
【毎日新聞】 | 2015年10月11日掲載 記事詳細 ※外部サイト 2015年 7月14日掲載 記事詳細 ※外部サイト |
【朝日新聞】 | 2015年 5月20日掲載 記事詳細 ※外部サイト 2015年 4月16日掲載 |
【山口新聞】 | 2015年 7月15日掲載 記事詳細 ※外部サイト 2015年 4月16日掲載 記事詳細 ※外部サイト |
【ちょるる活動レポート】 | 2015年 8月19日掲載 記事詳細 ※外部サイト |
【岩国錦帯橋空港】 | 2015年 6月 1日掲載 記事詳細 ※外部サイト |
【山口県観光振興課】 | 2015年 8月21日掲載 記事詳細 ※外部サイト 2015年 7月13日掲載 記事詳細 ※外部サイト |
【ぶらりブログ】 | 2015年 9月 8日掲載 記事詳細 ※外部サイト |
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維新百年記念公園
所在地; 山口県山口市維新公園4-1-1
世界スカウトジャンボリー2015(山口きらら博記念公園)、萩花燃ゆ館、防府花燃ゆ館、技能フェア(維新百年記念公園)、山口宇部空港
世界スカウトジャンボリー2015(山口きらら博記念公園)、山口県庁一階エントランス、岩国錦帯橋空港、アートふる山口、技能フェア(維新百年記念公園)
世界スカウトジャンボリー2015(山口きらら博記念公園)、畳新市場開拓プロジェクト2007(京都府京都市)、国民文化祭2006(山口市民館、山口中央郵便局)、雪舟サミット(山口県教育会館)、瑠璃光寺前、技能フェア(維新百年記念公園)、住宅フェア(山口きらら博記念公園)、アートふる山口、湯田温泉の旅館やホテル、下関のイベントなど
技能フェア(維新百年記念公園) 、山口国体(維新百年記念公園内ちょるる広場)、他多数
技能フェア(維新百年記念公園)、他イベントなど
瑠璃光寺五重塔(るりこうじごじゅうのとう)
photo by Yamaguchi Prefecture; (C)
所在地; 山口県山口市香山町7-1
山口は古くから石州街道、肥中街道などいくつもの街道が交差する交通の要衝でした。山口は京都と同じく風水における「四神相応の地」(東西南北を青龍・白虎・朱雀・玄武の四神獣が守護するに相応しい地)であり、大内氏によって京に見立てた街づくりが行われました。室町時代は「西の京」と謳われ京と並ぶほど大いに繁栄し、幕末には山口城が築かれ維新の志士達が集い倒幕の本拠地になりました。山口市内には多くの文化財や遺跡が残されており、歴史と文化と自然が共生する街並みとなっています。歴史文化が彩る山口の歴史を紹介していきたいと思います。
室町時代~戦国時代初期、守護大名「大内氏」は山口に本拠を構え、中国地方から九州北部にかけて日本最大の勢力を築きました。応仁の乱により、戦火を逃れ、山口に訪れた京の公家や文化人などを庇護し、東山文化、北山文化、大陸文化を融合した独自文化である「大内文化」が開花しました。また、フランシスコ・サビエルが訪れ、同行のコスメ・デ・トルレスによって日本で最初の教会が築かれ、クリスマスを祝ったたことから日本でのクリスマス発祥の地でもあります。山口は国際文化都市として、京と並ぶほど繁栄したことから「西の京」と謳われました。現在山口市はサビエルの出生地であるスペインのパンプローナ市と姉妹友好都市となっており、パンプローナ市内には日本庭園を施した「ヤマグチ公園」築かれ、山口市内ではサビエル記念聖堂が築かれているほか、商店街ではスペインフィエスタのイベントも行われています。
明治維新策源地
関ヶ原合戦後は「毛利氏」が治める長州藩(現在の山口県)の藩庁が萩に置かれました。幕末には吉田松陰の教えをもとに、高杉晋作や桂小五郎を中心に明治維新の先駆けとして活躍します。高杉晋作のクーデターが成功すると、幕府への備えとして藩庁が萩城から山口城に移鎮されました。山口は長州藩の藩領の中心に位置し、補給などの兵站支援や統制に適しており、策源地としての役割を果たします。「素人は戦略を語り、玄人は兵站を語る」という格言があるように策源地は重要な役割を果たしました。山口には西郷隆盛や大久保利通、坂本龍馬など多くの維新の志士達が続々と山口を訪れ、倒幕の密議を交わしました。
山口城跡(やまぐちじょうあと)
photo by Yamaguchi Prefecture; (C)
所在地; 山口県山口市滝町1-1
本州最西端に位置し、三方を海に囲まれ豊かな自然に恵まれた山口県は、古くから九州と本州を繋ぐ交通の要衝として栄えてきました。山口県は周防国と長門国(防長二カ国)、江戸時代には長州藩を前身としており、日本の歴史の舞台や要所として度々登場してきました。そのような山口県の歴史を年代別に紹介していきたいと思います。
鎮護国家の象徴である東大寺の大仏には、秋吉台付近にある日本最古の銅山跡「長登銅山」(ながのぼりどうざん)から産出する銅が大量に使われました。正倉院宝物についても長登銅山の銅や鉛が使われた可能性が極めて高いともいわれます。
下関で源平最終決戦である「壇ノ浦の戦い」が起こり源義経などが活躍し平氏が滅亡しました。また、源平合戦で焼失した東大寺を再建するために、防府に国府を置く周防国は東大寺造営料国(※再建の材料や費用をまかなう国)になり、周防国分寺は全国の国分寺の中でも特別な扱いを受けました。
元寇の再襲来の備えとして最前線防衛機関である長門探題が置かれ、幕府の執権北条氏一門が守護につきました。
山口に本拠を置く大内氏は島根県の「石見銀山」(世界遺産)の開発や三代将軍足利義満の頃に幕府に最盛期をもたらした「勘合貿易」は、のちには大内氏が貿易独占権を得るようになり莫大な経済基盤をもつようになりました。山口は京に並ぶほど繁栄し、日本最大級の都市として「西の京」と謳われました。
京を追われた10代将軍足利義稙が大内義興を頼りに山口を訪れました。義興は義稙を擁して戦国時代最初に上洛を果たし、将軍に復職をさせ、後見人として幕府の実権を握るようになります。
戦国時代末期の関ヶ原戦いでは西軍の総大将毛利輝元が敗戦後は周防・長門の二カ国(山口県)に減封されました。
幕末には黒船来航による世界の近代文明の波が押し寄せ、国内は激しく揺れ動きます。長州藩は海上交通の要衝であったため一層危機意識が高く、支藩である岩国藩、徳山藩、長府藩、清末藩(孫藩)と結束し、他藩に先駆け行動を起こしましたが、紆余曲折の末、長州藩は滅亡寸前まで追い込まれました。存亡を賭けた「四境戦争」(幕長戦争)では山口城を策源地として四ヶ所の藩境で戦いが起こりました。幕府軍15万に対し長州軍4千と戦力差は歴然でしたが、亀山社中(のちの海援隊)率いる坂本龍馬も参戦し、大村益次郎、高杉晋作や支藩の活躍で勝利します。潮流は倒幕へと一変し、同盟関係にあった薩摩藩の協力のもと明治維新への大きな流れを生み、時代の転換点となりました。