有史以来、畳は日本人の生活をはじめ、政治、文化、宗教と、あらゆる面で日本人の精神活動に深く関わってきました。今日では畳は日本の伝統文化であるということは周知の通りですが、そもそも畳はいつ頃からあるのでしょうか?
朝倉山浅間公園から望む霊峰富士
所在地; 山梨県富士吉田市新倉3353-1
日本最古の歴史書である古事記(712年)には「皮畳」(かわだたみ)「絁畳」(あしぎぬだたみ)「菅畳」(すがたたみ)など、日本書紀(720年)では「八重席薦」(やえむしろこも)との記述が見られます。当時の畳は敷物の総称を意味しており、これを何枚も重ねて座具や寝具として使われていました。折りたたんで使用していたことから「たたみ」の語源とされています。また、この頃工匠としての畳技術者が現れるようになります。
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所在地; 奈良県生駒郡斑鳩町法隆寺山内1-1
飛鳥時代の象徴である法隆寺は聖徳太子により、父である用明天皇のために607年に創建されました。しかし、「日本書紀」によると670年に落雷により焼失しその後、天武天皇の時代(673~686年)に再建されたものだといわれています。いずれにしても現存する世界最古の木造建築物に違いはなく、1993年に世界文化遺産に登録されています。法隆寺の五重塔は世界最古の五重塔であり、日本三名塔の一つに数えられています。
古事記と日本書紀は天武天皇(673~686年)の命により編纂が始まり、古事記は712年、日本書記は720年に完成しました。
青島神社(あおしまじんじゃ)
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所在地; 宮崎県宮崎市青島2-13-1
古事記によると「美智(みち)の皮の疊(たたみ)八重(やへ)に敷き、亦(また)、絁(あしぎぬ)の疊八重に其の上に敷き、其の上に坐(いま)させたてまつりて」(日本書紀では八重席薦)と記述されてます。
これは日本神話「山幸彦(やまさちひこ)と海幸彦(うみさちひこ)」において、海神(わたつみ)が山幸彦である火遠理命(ほおりのみこと)を宮殿に招いて、アシカの毛皮の畳を何枚も重ねて敷き、またその上に絁(絹織物の一種)の畳を何枚も重ねて敷き、
その上に座っていただき、多くのご馳走で丁重におもてなしをして、そのまま海神の娘である豊玉毘売(とよたまびめ)と婚姻を結んだという場面です。このことから、畳を幾重にも重ねることで厚くし、高くした座具に座っていただくことで客人をおもてなしするという風習が当時からあったと見受けられます。
また、日本神話「山幸彦と海幸彦」は民話「浦島太郎」のもとになっており、宮崎県宮崎市にある青島神社には火遠理命とその妃である豊玉毘売と塩椎神(しおつちのかみ)が祀(まつ)られています。
走水神社(はしりみずじんじゃ)
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所在地; 神奈川県横須賀市走水2-12-5
古事記の「倭建命(やまとたけるのみこと)の東国征伐」においても「菅(すが)疊八重」「皮疊八重」「絁疊八重」の記述があります。
倭建命が走水(はしりみず)の海を渡る時、暴風に逢い海を渡ることができずにいました。そこで妻である弟橘比売命(おとたちばなひめのみこと)が自ら夫の身代わりとなり、海神の怒りを鎮めるため「菅畳八重」「皮畳八重」「絁畳八重」を波の上に敷いてその上に身を投じました。すると波が穏やかになり船が進むことができた。という内容です。
この物語は、献身的な妻が夫を守るために自ら犠牲を払うという感動的な悲話で、人気の高い名場面です。このときの畳は海神への貢物(みつぎもの)として弟橘比売命が身を投じる際に使われており、神聖な意味が込められて、神具としての役割を果たしています。やはり畳を幾重にも重ねることで厚くし、高くして使用することが風習だったように見受けられます。神奈川県横須賀市にある走水神社には倭建命と弟橘比売命が祀られています。
東大寺(とうだいじ)
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所在地; 奈良県奈良市雑司町406-1
現存するもので最も古いとされる畳は、東大寺の正倉院にある「御床畳」(ごしょうたたみ)と言われています。これは、ワラなどをを編んで作った敷物を三枚ほど重ねて二つ折りにして六層にしたものにイ草の表を張り、錦(にしき)の縁をつけて木製の台の上に乗せたもので、これを二台並べて寝台として聖武天皇が使用していました。
敷物を重ねて構成するあたりが古事記に登場する畳の遺構が見られます。御床畳では重ねた上で糸で縫いつけており、また補強も兼ねて縁(ふち)がつけられることで側面からの美観も増しました。
東大寺は聖武天皇によって国家の安寧のために国力を尽くして建立されました。大仏殿は盧舎那仏像(るしゃなぶつぞう)を本尊(ほんぞん)とし、一般的に「奈良の大仏」として知られています。
また、聖武天皇の頃には宮廷行事である「相撲節会」(すまひのせちえ)が行われました。相撲は「古事記」の日本神話「国譲り」において力くらべで国の行く末の決めたと記される程古くからあり、奈良時代には宮廷行事として行われました。
聖武天皇 (しょうむてんのう)と畳
聖武天皇は仏教を厚く信仰し、741年に国家鎮護のため「国分寺建立の詔(みことのり)」を出し、全国に国分寺(こくぶんじ)・国分尼寺(こくぶんにじ)が建立されました。東大寺はその総本山として位置づけられました。東大寺正倉院には聖武天皇の遺品や奈良時代を代表する宝物が保管されており、「御床畳」はその一つとして寝具として愛用されたものです。
平安時代には貴族の住宅様式である寝殿造りの発展に伴い、畳床にイ草の表を取り付けた厚みのある畳が所々使用されるようになりました。板敷きの間に数枚置かれるようになり、主に貴人の座所として使われていたようです。
北野天満宮(きたのてんまんぐう)
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所在地; 京都府京都市上京区御前通今出川上る馬喰町
異例の出世を遂げて、「学問の神様」と知られる菅原道真(すがわらのみちざね)を祭神として祀る神社であり、福岡県の大宰府天満宮とともに全国の天神信仰の総本社とされてます。(山口県の防府天満宮を合わせて日本三大天神とも呼ばれています。)
北野天神縁起絵巻 承久本 巻三
(きたのてんじんえんぎえまき じょうきゅうぼん)
北野天満宮所蔵
国宝「北野天神縁起」は鎌倉時代の承久年間に描かれた絵巻物で、菅原道真の生涯や没後に起きた都の災いが菅原道真の怨霊によるものと人々に信じられるようになるなど、天神信仰の由来について描かれています。
上図の巻三では菅原道真が無実の罪を着せられ左遷されることとになり失意に打ちひしがれる様子を描いています。(右上に畳に座っているのが菅原道真)
そのときに「東風(こち)吹かば匂ひをこせよ梅花 主(あるじ)なしとて春な忘れそ」(東の風が吹いたなら香りを届けておくれ、梅の花、主人がいなくても春を忘れないでおくれ)と、あの有名な和歌を詠み、道真が大宰府に着くと一夜にして道真の元に飛んできたという「飛梅伝説」が語り継がれています。
鎌倉時代の承久年間の絵巻ですが、青々とした縁をつけられた畳が描かれており、裕福な貴人の邸宅では畳が数多く敷かれている様子が描かれています。
所在地; 京都府京都市伏見区醍醐東大路町22
醍醐天皇の命により法令集である延喜式(えんぎしき)の編纂が始められ967年に施行されました。延喜式には身分によって畳の厚さや大きさ、縁などに規定が定められており、畳は生活の道具としてだけでなく、権威の象徴としての側面も持ち合わせていました。
醍醐寺はその名のとおり醍醐天皇の勅願寺(ちょくがんじ)であり五重塔は醍醐天皇の菩提(ぼだい)を弔(とむら)うため951年に完成しました。応仁の乱による戦火を逃れ、現存する京都最古の木造建築物として顕在しており、また日本三名塔の一つにも数えられています。
平等院 鳳凰堂(びょうどういん ほうおうどう)
所在地; 京都府宇治市宇治蓮華116
平等院鳳凰堂は光源氏のモデルともいわれる源融(みなもとのとおる)により元は皇族の別荘として建てられ、数々の所有者を経て藤原道長(ふじわらのみちなが)の息子である頼通(よりみち)により当時「宇治殿」とよばれていたものを寺院に改め「平等院」になりました。
創建された1052年は人災、天災に見舞われる末法思想における元年にあたり、この世で極楽浄土を願い、観想するために建てられました。10円玉の表面にも使われており、「源氏物語」の舞台にもなっています。
源氏物語絵巻「鈴虫二」
(げんじものがたりえまき 「すずむしに」)
五島美術館蔵
世界最古の長編小説である「源氏物語」は紫式部により著されました。「源氏物語絵巻」は著作150年後の平安時代末期に描かれたものとされ日本最古の絵巻物といわれています。
絵巻鈴虫二では宴に招かれ訪れた光源氏(中央の畳に座ってる人物)と不義の子である冷泉院とが対座し懐かしみ語り合う様子が描かれています。また、この絵巻は2000年に発行された二千円紙幣の裏面に使われました。
平安末期の絵巻物であり、青々とし側面まで縁がつけられた厚みのある畳が、柱をまたいで連続して敷かれている様子がうかがえます。
厳島神社(いつくしまじんじゃ)
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所在地; 広島県廿日市市宮島町1-1
厳島神社は推古天皇の時代593年を創建としており、平安時代末期に平清盛(たいらのきよもり)によって現在のような海上に立つ社殿に整えられました。宮島全体が神域とされていたことから海上に神域への入り口である鳥居が造られたといわれます。平安時代の建築様式である寝殿造(しんでんづくり)の特徴をよく表しています。
紫式部(むらさきしきぶ)と畳
平安時代中期に栄えた国風文化の代表的な文学作品「源氏物語」の作者で、後世には絵巻物が作られ、現在では世界20カ国を超える言語に翻訳され読まれるなど多大な影響を及ぼしました。
平将門(たいらのまさかど)と畳
平安時代中期の武将。「平将門の乱」を起こし、命を懸けて民衆を守るために立ち上がった英雄として関東を中心に語り継がれています。神田明神では御祭神三之宮として祀られています。
源義経(みなもとのよしつね)と畳
平安時代末期~鎌倉時代初期の武将。壇ノ浦の戦いなどで活躍を見せるなど源氏の功労者でありながら兄の頼朝の反感を買い朝敵となりました。追われの身となり各地を転々と逃亡しましたが、奥州平泉において果て、悲劇の英雄として人々から同情されました。このことから「判官贔屓」(ほうがんびいき)という言葉が生まれました。
鎌倉時代に入ると、上層武士を中心に簡素で実用性のある武家造の建築様式が広まり、屋敷の出居(デイ)と呼ばれる客間が変化して、酒宴などを行い来賓をもてなすための接客室に発展し、「座敷」と呼ばれるようになりました。ここでは部屋の周囲にロの字に畳が敷き詰められるようになります。(前述の北野天神縁起絵巻のように全面に畳が敷き詰められた部屋があった可能性もあります。)この当時には床の間や違い棚など現代の和風建築の基礎となる様式が確立されていきました。
鶴岡八幡宮 舞殿(つるがおかはちまんぐう まいどの)
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所在地; 神奈川県鎌倉市雪ノ下2-1-31
1185年以降源氏が政権の中枢を担うようになり源頼朝(みなもとのよりとも)により鎌倉を中心とする武家政権が始まりました。鶴岡八幡宮は源氏の守護神として氏神(うじがみ)として祀られ、鎌倉幕府は鶴岡八幡宮を中心に武家屋敷を築くなど都市整備されます。
鎌倉時代に成立した日本の歴史書である「吾妻鏡」(あづまかがみ)には鶴岡八幡宮舞殿において頼朝とその妻である北条政子(ほうじょうまさこ)の前で義経の恋人である静御前が義経を慕う歌を唄いながら舞を披露したことが記されています。
吉水神社 源義経潜居の間
(よしみずじんじゃ みなもとのよりつねせんきょのま)
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所在地; 奈良県吉野郡吉野町吉野山579
吉水神社の書院は鎌倉時代初期書院造の建築様式を知る上で重要な遺構とされています。
頼朝と対立し、追われる身となった義経は静御前や弁慶と共に吉水院(吉水神社)にて身を潜めていました。のちに止むを得ず吉野山を離れることとなり、義経と行き別れとなった静御前は道中捕らえられ義経捜索のため鎌倉に護送されることになります。
吉水神社 後醍醐天皇 玉座
(よしみずじんじゃ ごだいごてんのう ぎょくざ)
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所在地; 奈良県吉野郡吉野町吉野山579
後醍醐天皇は王政中心による建武新政(けんむしんせい)の再起を図るため南朝の皇居を吉水院(吉水神社)に定めました。朝廷は足利尊氏(あしかがたかうじ)が建てた京都の北朝と吉野の南朝とに分かれ、以後60年にわたる南北朝時代が始まります。
また、桃山時代には豊臣秀吉が吉野山の花見の宴のために総勢5000人ほど引き連れ、吉水院を本陣としていました。この桃山式書院は秀吉の寄贈(きそう)により修繕されたもので、絢爛豪華(けんらんごうか)な桃山文化の特徴を現しています。
源頼朝(みなもとのよりとも)と畳
日本史上始めて朝廷から独立した武家政権を築き、以降明治まで武士を中心とする政治が続きます。(建武の新政を除く)
源頼朝は鎌倉幕府の長であることから鎌倉殿とも呼ばれました。
幕府という言葉は当時は将軍の居館のことを指しており、江戸中期以降にいわゆる武家政権の意味で使われるようになります。
後醍醐天皇(ごだいごてんのう)と畳
後醍醐天皇は平安時代の醍醐天皇の天皇親政を理想とすることから遺諡(いし)を後醍醐と定めました。理想の実現のため鎌倉幕府打倒の計画をしましたが、2度の失敗を重ねたのち、隠岐(おき)に島流しされます。しかし翌年隠岐から脱出し、足利高氏(尊氏)、新田義貞の協力を得て、遂に幕府打倒を果たし、悲願である建武新政権を樹立しました。
この頃になると、部屋全体に畳が敷き詰められるようになり、敷き方なども格式化されていきました。畳縁の使用に制限が設けられ、縁の種類によって序列化し、座る人の地位や身分などを明示するようになりました。
天龍寺(てんりゅうじ)
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所在地; 京都府京都市右京区嵯峨天龍寺芒ノ馬場町68
天龍寺は吉野で崩御された後醍醐天皇の菩提を弔うため禅僧である夢窓漱石(むそうそせき)の勧めで足利尊氏(あしかがたかうじ)によって開基されました。当時北朝と南朝は政治的に対立していましたが、尊氏個人としてはかつては倒幕のため共闘したこともあり、終生尊崇の念を抱いていたといわれています。
曹源池庭園は作庭家としても名高い夢窓漱石によって作られ、日本最初の史跡:特別名勝に指定されています。
鹿苑寺 金閣 (ろくおんじ きんかく)
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所在地; 京都府京都市北区金閣寺町1
鹿苑寺は舎利殿(しゃりでん)である金閣があることから通称「金閣寺」といわれ、当時は三代将軍足利義満(あしかがよしみつ)の邸宅であり、また迎賓館としての役割も果たしていました。北山文化の代表的建築物で、北山山荘を義満の死後、菩提を弔うため鹿苑寺に改めました。当時は会所(かいしょ)建築である天鏡閣と呼ばれる二階建ての建築と金閣の二階部分を廊下で繋いでいたといわれています。
客間である会所では、重要な場所に掛け軸などの装飾を施し、その前に上座を設け、装飾を背にすることで身分の高い人の演出に用いられ、のちに「床の間」として発展していきます。
慈照寺 銀閣 (じしょうじ ぎんかく)
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所在地; 京都府京都市左京区銀閣寺町2
慈照寺は金閣寺の舎利殿を模した観音殿(かんのんでん)である銀閣に因んで通称「銀閣寺」と呼ばれます。 室町時代後期に栄えた東山文化の代表的建築物で、八代将軍足利義政(あしかがよしまさ)が応仁の乱後に造営した東山山荘を義政の死後、菩提を弔うため慈照寺に改めました。
慈照寺 東求堂(じしょうじ とうぐどう)
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所在地; 京都府京都市左京区銀閣寺町2
慈照寺境内(けいだい)には銀閣の他、東求堂と呼ばれる建物があり、「同仁斎」(どうじんさい)と呼ばれる部屋には四畳半の畳が敷き詰められているほか、「違い棚」(ちがいだな)や床の間の元となる「付書院」(つけしょいん)など現代和風建築の原型ともいえる遺構が残っています。足利義政が書斎として余生を過したこの書院は、現存する日本最古の四畳半ともいわれ、茶室の源流にもなっています。
大徳寺 大仙院 書院庭園
(だいとくじ だいせんいん しょいんていえん)
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所在地; 京都府京都市北区紫野大徳寺町54-1
床の間や違い棚などの座敷飾りを設けた書院造の普及に伴い、建物内である書院から庭園を眺める書院庭園が様式化されていきました。
大仙院書院庭園は室町時代を代表する枯山水(かれさんすい)庭園で山から流れ落ちる滝が海に流れ込む表現をした枯滝組(かれたきぐみ)が特に有名で史跡・特別名勝に指定されています。
また、大仙院には日本最古の「床の間」があるほか日本最古の「玄関」があり国宝指定されています。
※「床の間」は正式名称は「床(とこ)」と呼び、僧侶の住宅で仏画の前で机を置き、三具足(みつぐそく、※花立
、香炉、燭台)を並べて祀っていたのが起源といわれ、机を建築に取り込んだものが押板(おしいた)と呼ばれるようになりました。武士や貴族の間では掛け軸など飾り物を施し、家長や客人などを装飾により演出しておもてなしする空間となりました。
足利尊氏(あしかがたかうじ)と畳
足利高氏は倒幕の功績から後醍醐天皇の諱(いみな※本名)である「尊治」(たかはる)から偏諱を賜り「尊氏」に改名しました。源氏の流れを汲む足利氏である尊氏は武士の支持を得て、武士の棟梁に担ぎ出されるようになりました。
足利義満(あしかがよしみつ)と畳
三代将軍足利義満は南北朝合一を果たし、幕府の権力を確立させ室町幕府最盛期を築きました。また、伝統的な公家文化と新興の武家文化とが融合し、明との勘合貿易を通じて大陸文化である禅宗の影響を受けた北山山荘を中心とする「北山文化」を開花させました。
足利義政(あしかがよしまさ)と畳
八代将軍足利義政は公家文化、武家文化、禅宗文化に庶民文化が融合し、東山山荘を中心とする「東山文化」を開花させました。庭園、書院造、茶道、華道、水墨画、能、連歌と日本文化の源流ともいわれ、数多くの芸術文化が築かれました。また応仁の乱により多くの文化人達が地方の守護大名に庇護を求めたことで地方に文化が浸透していきました。
書院造の発展に伴い武家屋敷に主従関係の対面儀礼を行う広間である対面所(たいめんじょ)が設けられました。対面所では座敷飾りを施し、他の座敷より一段高くして畳敷きにしたところを通称「床の間」と呼び、身分の高い人の権威を演出する場となります。安土城、大坂城では壁や襖、障子などに日本絵画史上最大の画派である「狩野派」(かのうは)の絵師による絢爛豪華な装飾を施し、広間は全面畳敷きにされ、権威と秩序を示す場となります。大坂城では対面所で豊臣秀吉が徳川家康と謁見し、家康が秀吉の代わりに戦場で指揮をとるため陣羽織(じんばおり)を所望し忠義を示したともいわれます。
安土城天主 信長の館 復元(天主六階内部)
(あづちじょうてんしゅ のぶながのやかた)
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所在地; 滋賀県近江八幡市安土町桑実寺800番地
安土城は織田信長(おだのぶなが)が築城した世界で始めての木造高層建築といわれた城ですが、わずか3年たらずで戦火により焼失し、幻の名城と謳われてきました。近年天主指図(てんしゅさしず)が発見され、1992年にスペインで行われたセビリア・万国博覧会では日本館メイン展示にて天主最上部(5、6階)が現代の名工により再現され、復元展示されました。万博終了後は滋賀県近江八幡市安土町にある信長の館に移築され展示されています。(安土城のみ「天守」ではなく「天主」と表現します。)
織田信長は安土城築城の際「畳は備後表(びんごおもて)と高麗縁(こうらいべり)」として用いたといわれます。(※備後表は現在の広島県福山市付近で作られ日本最高級の畳表として知られます。江戸時代福島正則(ふくしままさのり)が備後表を献上したことにより幕府の指定銘柄となりました。)
また信長は弓矢や火縄銃の銃弾を防ぐために畳を盾として使用しようと考え、身を隠せるほどの寸法に畳の大きさを定めたとの説もあります。
大坂城 (おおさかじょう)
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所在地; 大阪府大阪市中央区大阪城1-1
織田信長の後継者である豊臣秀吉(とよとみひでよし)は天下統一のため本拠地を大坂(阪)に定め、石山本願寺の跡地に大坂城を築城しました。戦国時代の最終決戦である「大坂の陣」にて戦場となった歴史の転換点でもあります。
天下人となった豊臣秀吉は史上初めて全国統一した単位を用いた「太閤検地」(たいこうけんち)を行いました。検地とは田畑の面積や収量の調査のことで、太閤検地では土地の測量に使う検地竿(けんちざお)を「京間」の畳の大きさと同じ6尺3寸を1間(いっけん)と定め、収量調査では京枡(きょうます)を採用しました。それ以前でも各地方の大名により検地が行われており、織田信長が大規模に行った検地では京間を「畳割り」した柱間寸法と同じ大きさである6尺5寸を一間と定めました。
※「一間」とは元は単位ではなく建築設計において柱と柱の間のことを意味し、のちに農地の測量に使われるようになりました。当時の建築は畳の大きさを基準としてその周りに柱を配置する「畳割り」という設計手法が主流でした。
黄金の茶室(おうごんのちゃしつ) MOA美術館 復元
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所在地; 静岡県熱海市桃山町26-2
豊臣秀吉が造らせた「黄金の茶室」は金色と紅色で構成され、内装は主に金箔が張られ、畳表は猩々皮(しょうじょうひ)、畳縁は萌黄地金襴小紋(もえぎじきんらんしょうもん)、障子(しょうじ)は赤の紋紗(もんしゃ)が張られていたといわれます。組み立て式の茶室であり、関白就任後に御所や北野天満宮などに運搬され、主に権威を示す目的で茶会が開かれました。茶室の設計には千利休(せんのりきゅう)が関与していたともいわれています。
熊本城(くまもとじょう)
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所在地; 熊本県熊本市中央区本丸1-1
熊本城は加藤清正(かとうきよまさ)により築城され清正により銀杏(いちょう)の木が植えられたことから別名「銀杏城」(ぎんなんじょう)とも呼ばれます。加藤清正は篭城戦(ろうじょうせん)に備えて食料確保のため銀杏の木を植えたといわれ、また城の壁には干瓢(かんぴょう)を塗り籠め、畳床には藁(わら)の代わりに芋茎(ずいき)が用いられるなど実戦を想定した工夫が施されたといわれます。
熊本県八代市は500年程前から続く畳表に使う藺草(いぐさ)の名産地で知られ、現在では国内産畳表の95%を熊本県産畳表で占めています。
熊本城 昭君之間(しょうくんのま) 復元
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所在地; 熊本城本丸御殿内
熊本城本丸御殿には部屋数が53室もあり、1570畳もの畳が敷き詰められました。その中でも一際大きな建物である「大広間」では主に対面儀礼が行われました。昭君之間は大広間の中でも最も格式の高い部屋とされます。「昭君之間」は「将軍の間」の隠語との説があり、豊臣秀吉の子である秀頼(ひでより)の有事の際には熊本城に迎え入れ、徳川家康に背く覚悟だったといわれます。
大広間では押板や違い棚などの座敷飾りが施された座敷を一段高くしている所を「上段」(じょうだん※この場合L字型の鈎(かぎ)があることから「鈎上段」といいます)、下がった座敷を中段や下段といい、主君の演出をもたらしています。茶室においても上段が施され、上段の間を「床の間」と呼び、のちに押板と上段の座敷が縮小し簡略化されたものが現在の和風建築における床の間となったといわれます。客人や主人を演出することでおもてなしすることから「床の間」の前を「上座」(かみざ)とするしきたりが生まれました。
西本願寺(にしほんがんじ)
所在地; 京都府京都市下京区堀川通花屋町下ル
西本願寺は京都東山に創建され、各地を転々としたのちに豊臣秀吉による寺地の寄進を受け、大坂天満から京都堀川に寺基を移し建立されました。
桃山時代の書院式林泉(りんせん)の特色を表した特別名勝「本願寺大書院庭園」(ほんがんじおおしょいんていえん)のほか、装飾の見事さから日暮門として知られる「唐門」(からもん)、金閣、銀閣と並ぶ京都三名閣の一つである「飛雲閣」(ひうんかく)、日本最古の能舞台である「北能舞台」(きたのうぶたい)など、桃山文化の遺構である国宝が数多く残されています。
妙喜庵 (みょうきあん)
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所在地; 京都府乙訓郡大山崎町大山崎小字龍光56
安土桃山時代から江戸時代にかけて茶道の発展により、より簡素で茶人の好みに合わせた数奇屋風書院造り(すきやふうしょいんづくり)が主流になってきます。茶室に畳は欠かせないもので、わび、さびなどの思想の影響により、表面上の装飾を追及するのではなく、質素でありながら内的に優れたもの、時間の経過に伴い備わったものに美意識を見出すなど、畳は精神性の高い芸術品へと昇華していきました。
妙喜庵には千利休が作ったと信じうる唯一の茶室である待庵(たいあん)があります。山崎の合戦のさなか、陣中に二畳隅炉の茶室を作り、秀吉に千利休が茶を点じ労をねぎらい、その後解体し現在の地に移築されたといわれます。現存する日本最古の茶室であり、数奇屋風書院造りの原型ともされています。
織田信長(おだのぶなが)と畳
織田信長は桶狭間の戦いで今川義元に勝利し、美濃の平定後、天下布武を掲げ、天下統一を目指しました。秀吉のように身分を問わず才ある人材を登用し、楽市楽座のように開かれた市場を開拓するなど既成概念に囚われない画期的な行動を示しました。しかし本能寺の変で明智光秀による謀反に合い、野望は途絶えます。
豊臣秀吉(とよとみひでよし)と畳
豊臣秀吉は織田信長に仕え、身分が低いにも関わらず数々の逆境を乗り越え、異例の出世を遂げます。本能寺の変で信長が倒れたると、日本史上屈指の大強行軍である「中国大返し」を行い、山崎の戦いで明智光秀を破りました。そして信長の後継者となり悲願である天下統一を果たします。信長と秀吉の統一事業により雄大で華麗な「桃山文化」が開花しました。
千利休(せんのりきゅう)と畳
千利休は茶の湯の発展に努め、簡素簡略の境地である「わび茶」を完成させました。華美な装飾に頼るのではなく、不要なものを取り除き、自身の精神を磨き豊かにすることで客人をもてなすという侘び・寂びの精神を築きました。その精神は日本独特の美徳とされ茶道の域を超え影響を与えます。
江戸時代には畳は建築において重要な要素とされ、城などの改修工事を司る「畳奉公」(たたみぶぎょう)という役職が設けられました。江戸中期にかけて畳は商家などにも普及していきます。
二条城 (にじょうじょう)
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所在地; 京都府京都市中京区二条通堀川西入二条城町541
二条城
は徳川家康が征夷大将軍の宣下(せんげ)を受け、徳川慶喜(とくがわよしのぶ)により大政奉還(たいせんほうかん)が行われた徳川幕府の開闢と終焉の地です。1611年には豊臣秀吉の子である秀頼(ひでより)と家康との「二条城会見」が行われ、家康は秀頼の大物ぶりに驚愕したといわれます。
二条城には将軍と諸大名とが対面する場である「大広間」があり、一の間は48畳、二の間は44畳分の広さで幕末期には大政奉還が行われました。また、将軍の居間であり白木のままで仕上げた書院である「白書院」、将軍と親藩大名、譜代大名との内向きの対面所であり漆(うるし)など色付けがされた書院である「黒書院」などの国宝の部屋が数多くあります。
圓光寺(えんこうじ)
所在地; 京都府京都市左京区一乗寺小谷町13
圓光寺は徳川家康により国内教学を目的とし、日本最古の学校である足利学校(栃木県足利市)の9代庠主(しょうしゅ)である三要元佶(さんようげんきつ)を招き圓光寺学校として建立され、僧侶、庶民を問わず広く受け入れ修学したといわれます。
圓光寺は書物の刊行にも手掛け、家康の命により木製活字版である「伏見版」(ふしみばん)が出版されました。出版に使用された木活字は5万個にのぼり、現存する日本最古の活字とされ重要文化財になっています。また、縁側から眺める書院庭園は京都を代表する紅葉の名所として知られます。
江戸城跡(えどじょうあと)
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所在地; 東京都千代田区皇居外苑1-1
江戸城は江戸重継(えどしげつぐ)により居館が築かれ、太田道灌(おおたどうかん)により築城され、安土桃山時代に徳川家康により改築され本拠地とし、江戸幕府成立後には政庁を置き、日本最大の城郭(じょうかく)を備えるようになりました。江戸城の中核を成す「大広間」は500畳、大広間に次ぐ格式を有する「白書院」は300畳、将軍の日常的な応接間である「黒書院」は190畳に及ぶといわれ、畳は城の建築に欠かすことのできない重要な要素となり、「畳奉行」と呼ばれる役職が設けられるようになります。「畳奉行」は幕府の畳の新調、張替え、保管を担当し、「畳奉行手代」(てだい)や「畳蔵門番人」などの役職が置かれました。
名古屋城 (なごやじょう)
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所在地; 愛知県名古屋市中区本丸1-1
名古屋城は金の鯱(しゃちほこ)があることから金鯱城(きんこじょう)とも呼ばれ、公共事業である「天下普請」(てんかぶしん)により徳川家康により築城されました。九男である義直(よしなお)に城主を任され、以降徳川御三家の筆頭である尾張徳川家の居城となります。江戸城と同様「畳奉行」が置かれました。
江戸時代にも幕府により検地が行われ、検地竿(けんちざお)を「中京間」の畳の大きさと同じ6尺を1間(いっけん)と定めました。実際には竿の両端の損傷を見込んで1分の砂摺り(すなずり)が加えられ、6尺1分の竿が使われました。現在使われる面積の単位である「坪」(つぼ)は6尺四方である中京間の畳2畳分を基準としています。
江戸時代にはそれまで建築設計においてそれまで主流であった「畳割り」のほかに柱をまず建て畳の大きさを決める「柱割り」という設計手法が取り入れられ、柱の中心間6尺の柱割りである5尺8寸が「江戸間」として普及しました。「柱割り」は現在の建築でも主流になっています。
日光東照宮 (にっこうとうしょうぐう)
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所在地; 栃木県日光市山内2301
日光東照宮は後水尾天皇(ごみずのおてんのう)より与えられた勅諡号(ちょくしごう)である東照大権現(とうしょうだいごんげん) たる徳川家康を祀る神社です。孫である徳川家光(とくがわいえみつ)により大改築が行われ現在見られる装飾華美な社殿に造替されました。江戸初期の技術と芸術の集大成といわれる社殿には「見ざる、言わざる、聞かざる」で有名な三猿の彫刻などのほか、様々な動物の彫刻が施されており、平和の願いが込められているといわれます。拝殿(はいでん)には東側に「将軍着座の間」18畳、中央の間に63畳、西側に「法親王着座の間」18畳の計99畳の大広間があり、天井や壁などには東照宮内で最も華美な彫刻が施されています。
姫路城 (ひめじじょう)
所在地; 兵庫県姫路市本町68
姫路城は白鷺(しらさぎ)が羽を広げたような優美な姿から別名「白鷺城」(はくろじょう)とも呼ばれます。赤松氏により築城され、江戸時代に池田輝政(いけだてるまさ)や本多忠刻(ほんだただとき)により改築が行われました。
姫路城には「化粧櫓」(けしょうやぐら)があり、家康の孫娘である「千姫」(せんひめ)のために特別に建てられました。千姫が天満天神を祀るため百間廊下から西にある男山を毎朝拝んでいたといわれ、その際に休息所として利用し化粧直しをしていたといわれます。本来「櫓」とは「矢倉」とも書き、矢の倉庫など戦の備えに使われる施設ですが、化粧櫓は秀吉が築いた伏見桃山城の建材が移築され、畳を敷き詰めた桃山風書院造となっています。
また、姫路市の隣には主君への忠義を尽くした物語である「忠臣蔵」(ちゅうしんぐら)、「赤穂浪士」(あこうろうし)で有名な赤穂市があります。江戸中の畳職人を集めて200畳を一晩で畳替えをする話はよく知られます。
成巽閣(せいそんかく)
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所在地; 石川県金沢市兼六町1-2
成巽閣は戦国武将前田利家(まえだとしいえ)が築いた加賀百万石で知られる江戸末期前田家の奥方御殿(おくがたごでん)です。建物は青を基調とした顔料が所々施され、「群青の間」、「書見の間」では天井や壁に青と紫の意匠を凝らし特色ある空間を演出しています。江戸時代末期の大名屋敷の代表的な建築として重要文化財に指定されています。2015年に開通した「和の未来」をコンセプトとした北陸新幹線のグリーン車には「群青の間」の色彩空間を基調に表現されているといわれます。
高山陣屋(たかやまじんや)
所在地; 岐阜県高山市八軒町1-5
高山陣屋は江戸幕府直轄の代官所で、全国で唯一現存する天領の陣屋です。幕府が直轄領とした理由として付近一帯の豊富な山材資源や、地下資源があるためといわれています。
江戸時代は身分によって使用できる畳縁が制限されており、高山陣屋内部は同じ広間でも紋縁や黒の畳縁によって入ることができる部屋を分けてあるなど、当時の身分制度の遺構が残されています。
上級武家屋敷 旧黒澤家住宅
(じょうきゅうぶけやしき きゅうくろさわけじゅうたく)
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所在地; 秋田県秋田市楢山字石塚谷地297-99
江戸時代藩士の住宅は藩の所有物であり身分によりあてがわれていました。藩の都合や身分の変更により住居の変更が行われていました。旧黒澤家住宅においても芳賀家に始まり度々変更がなされ黒澤家に渡ることになります。旧黒澤家住宅は江戸中期に建てられた書院造りの上級武家屋敷です。当時の武家屋敷の遺構としては全国で類例を見ないほどほぼ完全な状態で保存されており重要文化財に指定されています。8畳茶室の「小座」の間は19世紀中期に中頃に増築されたものといわれます。
伏見稲荷大社(ふしみいなりたいしゃ)
所在地; 京都府京都市伏見区深草藪之内町68
伏見稲荷大社は稲荷信仰の総本社であり、主祭神として農業の神である宇迦之御魂大神(うかのみたまのおおかみ)を祀っています。有名な「千本鳥居」は神秘的な日本らしさを感じられることから海外の旅行者から毎年高い人気があります。
大社には後水尾院より賜った「御茶屋」と呼ばれる建物があり、書院造りから数奇屋風書院造りへの移行を物語る代表的な遺構として重要文化財に指定されています。
旧金比羅大芝居(きゅうこんぴらおおしばい)
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所在地; 香川県仲多度郡琴平町榎井817-10
江戸時代「歌舞伎」(かぶき)は人気の娯楽として広まりました。歌舞伎は「出雲阿国」(いずものおくに)で知られるお国という女性が京都でかぶき踊りをしたことが始まりといわれます。現在でも人気のある「幕の内弁当」や「助六寿司」は歌舞伎を由来としています。
旧金比羅大芝居は江戸末期に建てられた現存する日本最古の劇場であり、内部は畳敷きの上に木組みで枠を作り「桝席」(ますせき)と呼ばれる観客席が築かれ、1マス5名ほど入れるようになっており、役者が入退場する「花道」(はなみち)と「仮花道」に挟まれる構造になっています。そのほか両脇の段を高くした1階と2階の観客席は「桟敷」(さじき)と呼ばれ、上等席として扱われました。
堺市立町家歴史館 山口家住宅
(さかいしりつまちやれきしかん やまぐちけじゅうたく)
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所在地; 大阪府堺市堺区錦之町東1-2-31
畳は商家などの町屋にも広く普及していきました。堺の街は中世より貿易を中心に自治都市として繁栄し、江戸時代には商工業の街として発展しました。山口家住宅の主屋は大坂の陣に堺の街が全焼した直後に建てられた町屋です。「堺の建て倒れ」と例えられるように堺では建物に贅を凝らしたといわれます。山口家住宅では広い土間や高い天井に長い梁(はり)、畳廊下で部屋を繋ぐなど意匠を凝らした壮大な空間が特徴的で、当時の繁栄ぶりを物語っています。江戸初期の町屋は全国でも数少なく、山口家住宅は現存する貴重な町屋として重要文化財に指定されています。
石谷家住宅(いしたにけじゅうたく)
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所在地; 鳥取県八頭郡智頭町智頭396
江戸時代、智頭宿(ちづしゅく)は参勤交代の重要な通り道である「智頭往来」(ちづおうらい)の宿場町として栄えてきました。石谷家は「塩屋」を屋号とした商家として、明治には山林の地主として栄えました。石谷家住宅は智頭宿最大の建物の一つであり、江戸時代末期から昭和にかけて増改築が行われ時代を跨ぎ様々な様式が調和した近代和風建築の傑作といわれます。江戸座敷と呼ばれる書院式の座敷は土蔵を改造して客座敷にされたもので、非常に特色ある意匠が施されています。
徳川家康(とくがわいえやす)と畳
徳川家康は天下分け目の合戦である関が原の戦いにおいて石田三成を中心とする西軍に対し勝利を収めました。その後には江戸幕府初代征夷大将軍に任ぜられ、大坂の陣にて天下統一を果たし、260年に渡り15代に及ぶ徳川将軍家の繁栄の基礎を築きました。信長と秀吉と家康は同じ愛知県(尾張・三河)の地で生まれ、三英傑として称えられています。
徳川家光(とくがわいえみつ)と畳
三代将軍徳川家光は武家諸法度の改訂、参勤交代を整備し、幕府の基礎を確立し、幕藩体制を確固たるものにしました。また、貿易や交通を制限した「鎖国」が実施され、この状態は200年あまり続くことになります。
徳川吉宗(とくがわよしむね)と畳
八代将軍徳川吉宗は「享保の改革」を行い、「目安箱」を設置するなど民衆の理解に努め、幕政の建て直しを図りました。大岡越前で知られる大岡忠相(ただすけ)は町奉行として吉宗を支えました。時代劇「暴れん坊将軍」のモデルとしてよく知られています。
明治になると畳の縁柄の規制などが解除され、産業革命により鉄道を含め、各々の分野における近代化が推し進められたことで生産力も高まり、畳は一般に広く浸透していきました。呉服店を前身とする日本で最初の百貨店である「三越」は全館畳敷きでした。
また、単位について定められた法律である「度量衡法」(どりょうこうほう)により1間を中京間の畳の大きさである6尺に定められました。現在頻繁に使用される面積の単位である「坪」は中京間の畳2畳分として例えられます。
九州鉄道記念館(きゅうしゅうてつどうきねんかん)
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所在地; 福岡県北九州市門司区清滝2-3-29
明治維新以降の文明開化により鉄道の建設が推し進められ、新橋駅から横浜駅間を初め、全国に鉄道網が敷かれました。これにより旅客の高速移動や陸上運輸における貨物の大量輸送が可能となり、
鉄道は日本の近代化の一役を担い、類希なる急速な発展へと拍車をかけることになります。
九州鉄道記念館には明治時代の客車が展示されており、当時の座席には畳が敷かれていました。
旧大社駅(きゅうたいしゃえき)
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所在地; 島根県出雲市大社町北荒木441-3
出雲大社は「古事記」や「日本書紀」に創建が記されている程古くからあり、日本神話「国譲り」(くにゆずり)に登場する大国主大神(おおくにぬしのおおかみ)を主祭神として祀り、国譲りの代償として建てられた「天日隅宮」(あまのひすみのみや)が出雲大社の始まりといわれます。明治維新に伴い、平安期の「延喜式」に倣った格付けである近代社格制度下では唯一大社を名乗っていました。
出雲大社(いずもたいしゃ)への参拝路線として明治に国鉄大社線が開通し、大社前に駅舎が置かれ大正期に改築されました。平成に入り大社線の廃止とともに廃駅となりましたが、和風の趣(おもむき)と風格を備える駅舎は、和風駅舎の最高傑作といわれ重要文化財に指定されています。
北方文化博物館(ほっぽうぶんかはくぶつかん)
所在地; 新潟県新潟市江南区沢海2-15-25
新潟県は江戸時代より新田開発に努め、現在では「コシヒカリ」を代表に全国屈指の米の名産地として知られるようになりました。北方文化博物館は江戸時代中期に農業で栄え、明治には越後髄一の大地主となった豪農伊藤文吉の邸宅を前身とした博物館です。博物館には雪国ならではの囲炉裏(いろり)の間があり16人ほど腰を据えることができます。当時風呂をもっていない家も多く、地域の人々はここにもらい湯に来て暖をとっていたそうです。ここでは伊藤家で働く人達と地域の人々が共に囲炉裏で暖をとりながら世間話をして和んでいたそうです。伊藤家では地域の人々が安定した暮らしが保てるからこそ地主も暮らしが成り立つとの思いがあり、この囲炉裏の間は交流の場として地域の人々の暮らしを支える和の空間となりました。
道後温泉本館(どうごおんせんほんかん)
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所在地; 愛媛県松山市道後湯之町5-6
道後温泉は「古事記」や「日本書紀」にその存在が記されており、日本最古級の温泉として知られています。兵庫の有馬温泉、和歌山の白浜温泉と並ぶ日本三古湯(さんことう)の一に数えられます。
道後温泉本館は明治時代に温泉地の中心に建てられた近代和風建築で松山の街の象徴になっています。夏目漱石(なつめそうせき)の小説「坊ちゃん」に登場することから「坊ちゃん湯」の愛称で知られます。小説には「住田の温泉」として登場して称賛されており、また知人宛の手紙では「道後温泉はよほど立派なる建物にて、八銭出すと三階に上がり、茶を飲み、菓子を食い、湯に入れば頭まで石鹸で洗ってくれるような始末、随分結構に御座候」と書かれ絶賛されています。
本館の三階にある「坊ちゃんの間」は夏目漱石が湯上りにくつろいだといわれる六畳間の部屋があり漱石ゆかりの展示がされています。
講道館柔道発祥の地 永昌寺
(こうどうかんじゅうどうはっしょうのち えいしょうじ)
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所在地; 東京都台東区東上野5-1-2
講道館柔道は永昌寺の境内にある書院12畳を道場代わりにして始まりました。創始者である嘉納治五郎(かのうじごろう)は古来武術である柔術を通して人格形成の手段とし、各々の精神の完成を目指し社会全体の発展を目的とした「柔道」を創設しました。鍛錬を重ねることで身と心を養い、有効に応用することで実社会での生活を豊かにし、人と人とが尊重し合う思いやりが「礼」という形で表れ、社会全体が円満になり繁栄するという理念から、「精力善用」「自他共栄」の精神の育成を教育方針としています。現在ではオリンピックの種目になるなど世界の柔道として日本の精神が受け入れられ、国際的な広がりを見せています。
適度な弾力性と吸音性を備え、茶道の侘び寂びの精神にも通じる畳は身と心を育成する柔道の鍛錬には最適であり、発祥以来道場に欠かせないものとなっています。畳は「柔道畳」として発展し、現在においても柔道家の身心の修練の一助となっています。
旧武徳殿(きゅうぶとくでん)
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所在地; 京都府京都市左京区聖護院円頓美町46-2
旧武徳殿は「東の講道館、西の武徳殿」と評されるほど武道の中心的存在とされ、剣道、柔道、なぎなた、空手道、合気道など日本武道の聖地として知られています。平安時代の平安京大内裏(だいだいり)にあった天皇が武芸を観覧するための御殿である武徳殿に因んで名づけられたといわれています。日本最古の演武場として重要文化財に指定されており、現在は旧武徳殿のほかに弓道場や相撲場や競技場を備えた「武道センター」の施設となっています。
畳堤(たたみてい)
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所在地; 兵庫県たつの市揖保川沿い
畳堤とは普段は景観を損わないように枠だけを設け、河川の増水時には畳を差し込み嵩上げすることで堤防の役割を果たす特殊堤のことです。当初はコンクリートの堤防を築く予定でしたが、住民の要望によりコンクリートの堤防では揖保川の景観を損なうため、有事に際には住民の手で畳を持ち寄り協力するという自治意識のもと、畳堤は築かれました。
畳は水分を含むと膨張し遮水性と水圧に耐えうる強度が増すこと、持ち運びが便利なことから堤防に採用されました。住民の揖保川への深い思い入れと生活の知恵が畳堤を生みました。畳堤は兵庫県たつの市の揖保川のほかに、岐阜県岐阜市の長良川、宮崎県延岡市の五ヶ瀬川の一部でも見られます。
豊田市近代の産業とくらし発見館
(とよたしきんだいのさんぎょうとくらしはっけんかん)
所在地; 愛知県豊田市喜多町4-45
昭和初期の茶の間の風景を想定した展示室です。茶の間はちゃぶ台を囲み家族が集まり食事を取りながら談笑していた一家団らんの場所でした。テレビが普及してからはお茶の間にテレビが置かれ、冬にはコタツに入りながらみかんを食べ、テレビを見るという家族の円満な姿が定着しました。テレビからの「お茶の間の皆さん」との呼びかけは今でも使われています。施設には他にも豊田市域を特色とする近代産業の遺産が展示されています。
昭和中期には公団を初め、高層住宅が次々と建てられ、5尺8寸を基準とする「江戸間」の畳をさらに小さくした5尺6寸を基準とした畳が登場し、「団地間」と呼ばれるようになりました。
山形新幹線「とれいゆ つばさ」
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運行区間; 福島県 福島駅~山形県 新庄駅
2014年7月に開通した山形新幹線「とれいゆ つばさ」は技術立国日本の新幹線技術と、日本の伝統文化の和の風合いとが調和した観光列車です。車両の内装は地域の特色を活かした和の空間となっており、樺(かば)材のテーブルと畳座席を備え、天井には山形の果物の装飾を拵えた「語らいの間」、本桜のテーブルと畳座敷を備え、漆喰質の壁、石張りの小路、山形ゆかりの品を展示する有機ELの飾り棚で構成される「語らいの間」、「くつろぎの間」では足湯に浸りながら車窓から眺める情景を愉しむことができます。地域の特性を備えた伝統の優美を技術により支えた特色ある空間となっています。
畳は古くから日本人と深く関わってきました。おもてなしの座具、神具、玉座、寝具、権威の象徴、演出によるおもてなし、床の間、政(まつりごと)の場、侘び寂び、武道、くつろぎの間、防災、家族団らんの間と、単なる座具や床材などではなく、日本人の精神形成に深く関わり、またその役割を担ってきました。各時代の肖像画では背景は描かれずとも畳と人物はしっかりと描かれているように、畳は人物を象徴するものでした。畳は絶えることなく今日に至り日本人の生活に溶け込んでいきました。一体どれだけ多くの日本人が畳の上で思慮をめぐらせたことでしょうか。そんな畳は日本人の心であり、魂そのものといえるでしょう。そしてその先人達との心のつながりこそが「伝統文化」たる「畳」なのです。
京都迎賓館(きょうとげいひんかん)
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所在地; 京都府京都市上京区京都御苑
京都迎賓館は海外からの賓客を心をこめてお迎えし、日本への理解と友好を深めていただくことを目的に平成17年に建設されました。建設に当たっては、数寄屋大工、左官、作庭、截金(きりかね)など、数多くの伝統的技能を活用し、京都を代表する伝統技能者の技が生かされています。
迎賓館にはこだわりの素材、洗練された道具、匠の技を活かし、最高のおもてなしができるように館の隅々まで工夫が凝らされています。畳に関しては京都迎賓館全体でおよそ250畳敷き詰められており、日本独特の和の空間を感じることができるようになっています。畳には最高級の畳表である「備後表」を用いており、その中でも最高の手間をかけて折られる「中継ぎ表」が使用されています。「中継ぎ表」はイ草の良い部分だけを使用し2本を中心で繋いで織られたもので、中心に薄っすらと帯状の線が現れる独特な畳表です。畳縁は麻の本藍染が使用され、京都の畳職人により一針一針丁寧に手縫いで仕上げられました。
国際化が進み国際交流が深まるにつれ、互いに国を国たらしめる歴史や文化が求められます。畳文化は日本独自の文化として益々顕著に現れており、また海外からも日本の個性として認知されています。古事記において海神が火遠理命を畳八重を敷き丁重にお迎えしたと記されているように、畳で賓客をお迎えすることは古くからの習わしであり、最高のおもてなしでした。今日においても京都迎賓館を代表として、歴史ある日本の畳で賓客を心を込めてお迎えし、畳は日本への理解と友好の架け橋となっています。