毛利家家紋
一文字三ツ星

畳でつくった一文字三ツ星 一文字三ツ星正面

この作品は畳の素材をもとに作ったものです。
製作者  石田 昭典

毛利家家紋 一文字三ツ星 

一文字三ツ星

家紋の由来

毛利氏の遠祖にあたる平城天皇の皇子、阿保親王が皇親に与えられる最も高い品位(ほんい)である一品(いっぽん)を与えられたことを図案化し、オリオン座の中央に輝く「三武・将軍星」と呼ばれる「三つ星」を組み合わせ考え出されたものといわれています。

著名な当主
毛利元就(もうりもとなり)

安芸(現在の広島県西部)の小国の領主の次男でありながら、一代で中国地方を支配した戦国武将。厳島の戦いでは毛利元就4千、陶晴賢(すえはるかた)2万との劣勢でありながら謀略を駆使して勝利するなど、戦国最高の知将と呼ばれました。有名な「三本の矢」の教えは結束の大切さを説きました。

厳島神社(いつくしまじんじゃ)

厳島神社 鳥居

photo by Alex Tora; PD; from Wikipedia Commons

所在地; 広島県廿日市市宮島町1-1

大寧寺の変において大内義隆は自決し、大内氏の正統は滅亡しました。その後、大内氏の実権を握った陶隆房と、大内義隆と同盟関係にあった毛利元就は対立し、宮島にて日本三大義戦として名高い「厳島の戦い」が行われました。

吉田郡山城跡(よしだこおりやまじょうあと) 遠景

吉田郡山城跡

photo by TT mk2; CC-BY-SA-3.0; from Wikipedia Commons

所在地; 広島県安芸高田市吉田町吉田

吉田郡山城は毛利氏により築かれた山城で、毛利元就の頃には勢力を拡大し、郡山全山に拡張されました。天文9年(1540年)の吉田郡山城の戦いでは出雲の戦国武将尼子晴久(あまごはるひさ)三万の侵攻に対し、毛利元就三千は策謀と地の利を活かし対抗し、同盟関係にあった大内義隆一万の救援もあって撃退に成功しました。

洞春寺(とうしゅんじ) 山門

洞春寺 山門

photo by おいでませ山口へ; (C)

洞春寺 観音堂

洞春寺 観音堂

photo by おいでませ山口へ; (C)

所在地; 山口県山口市水の上町5-27

戦国武将毛利元就(もうりもとなり)の菩提寺です。もとは室町時代大内盛見が建てた国清寺(こくしょうじ)で盛見の菩提寺でした。毛利氏が防長二カ国に移ってからは毛利隆元の菩提寺となりましたが、のちに毛利元就の菩提寺となり明治に洞春寺に改称しました。山門は室町時代創建当初のもので全国でも大変貴重な四脚門で国の重要文化財に指定されています。(観音堂も重要文化財に指定。)

毛利輝元(もうりてるもと)

毛利元就の孫である毛利輝元は関が原の合戦において西軍の総大将(石田三成が中心に采配を振った)に擁立されましたが敗北し、中国地方9カ国120万石から周防、長門の2カ国36万石(現在の山口県)に大減封され萩に移封されることになりました。長州藩の藩祖。

広島城(ひろしまじょう)

広島城

photo by Jakub Hałun; CC-BY-SA-4.0; reduced image; from Wikipedia Commons

所在地; 広島県広島市中区基町21-1

毛利輝元は毛利氏の居城であった吉田郡山城から交易の便がよく城下町の形成が可能な広島に本拠を移しました。広島城は毛利輝元が築城した平城で別名「鯉城」(りじょう)とも呼ばれます。関が原の合戦後は福島氏や浅野氏の居城になりました。現在の復元された天守は歴史博物館として利用されています。

 

萩城跡(はぎじょうあと)

萩城跡

photo by Yamaguchi Prefecture; (C)

所在地; 山口県萩市堀内

慶長9年(1604)に毛利輝元が築城しました。明治7年(1874)、天守閣、矢倉などの建物は全て解体され、現在は石垣と堀の一部が昔の姿をとどめています。旧本丸跡に歴代藩主を祀る志都岐山神社が創建された際、総面積約20万㎡の境内が指月公園として整備されました。園内には天守閣跡、梨羽家茶室、旧福原家書院、万歳橋、東園などの旧跡があります。

毛利重就(もうりしげたか)

江戸時代中期、萩藩は天災による米の不作などによって財政に苦しんでいました。そこで、検地を行い、4万石の収入を得ることができました。それを資金に塩田開発や米、塩、紙などの生活必需品(※防長三白、のちに蝋「ろう」を加えて防長四白と呼ばれる)などに力を注ぎ、財政を立て直すことに成功しました。その財源は幕末期の長州藩の原動力となりました。

防府天満宮(ほうふてんまんぐう)

防府天満宮

photo by Yamaguchi Prefecture; (C)

所在地; 山口県防府市松崎町14-1

防府天満宮は学問の神様としてあがめられている菅原道真を祀った「日本最初の天満宮」です。京都の北野天満宮、福岡の太宰府天満宮とともに日本の三天神といわれています。有名な祭りとしては2月の牛替神事(うしかえしんじ)と11月の御神幸祭(ごじんこうさい)が挙げられます。道真は学問の神様であるため、ここで筆や受験のお守りを買う若い人たちの参拝も多く正月の3ヶ日には約30万人以上の人出があります。春には梅の花が開き境内を飾ります。
 毛利重就は防府天満宮の社殿すべてを造営造替をしており、境内には毛利重就像が建っています。防府をこよなく愛した重就は藩主を子の治親(はるちか)に譲り、防府の三田尻御茶屋で余生を過しました。

周防国分寺(すおうこくぶんじ)

周防国分寺

photo by おいでませ山口へ; (C)

所在地; 山口県防府市国分寺町2-67

天平13年(741)聖武天皇の勅願により、国ごとに建てられた官寺のひとつです。平安時代には衰退しましたが、鎌倉時代、周防国が総国分寺である東大寺の経費の支出をまかなう料国となったのを契機に再興されました。その後大内氏、毛利氏の保護によって維持され、当初の寺域をほぼ維持しています。周防国分寺旧境内は昭和32年に国の史跡に指定されました。現在の金堂は毛利重就によって再建されました。

東大寺別院阿弥陀寺(とうだいじべついんあみだじ)

阿弥陀寺

photo by Yamaguchi Prefecture; (C)

所在地; 山口県防府市大字牟礼上坂本1869 

大平山の山麓に佇む古刹で、あじさい寺として親しまれています。東大寺再建のため周防国へ西下した俊乗房重源が文治3年(1187)後白河法皇の現世安穏を祈るため、自ら荒野を開いて建立したといわれています。
国宝の鉄宝塔をはじめ貴重な仏像・古文書がたくさんあります。また、境内には80種約4000本のあじさいが植えられ、毎年6月にはあじさい祭りが開催され多くの観光客が訪れます

周防国衙跡(すおうこくがあと)

周防国衙跡

photo by Yamaguchi Prefecture; (C)

所在地; 山口県防府市国衙、警固町、多々良惣社町、勝間

国衙とは、律令時代に朝廷が中央から国司を派遣した役所をいいます。防府は周防国の国衙が置かれたところで、国衙がある区域を国府といいました。防府の地名の由来は周防の「防」と国府の「府」からきています。国衙の跡は防府市の多々良山の南一帯約92,500㎡に広がっており、国衙の中心的建物があったと推測される国庁域、国府の港が設けられていたと考えられる船所・浜ノ宮地区などがあります。現在、政庁があったと推定されている場所は公園として整備されており、「國廳(国庁)」と刻まれた石碑や説明板などがあります。

               

三田尻塩田記念産業公園
(みたじりえんでんきねんさんぎょうこうえん)

三田尻塩田記念産業公園

photo by Yamaguchi Prefecture; (C)

所在地; 山口県防府市大字浜方381-3

塩は、米・紙とともに防長三白といわれる重要産物でした。県下の塩田は三田尻が最大で、全国でも有数の塩の産地として栄えていました。江戸時代中期から昭和30年代までの約260年にわたって塩田として使われていた跡地の一角に、かつての入浜式塩田の諸施設を復元したのがこの公園です。あわせて道具類の展示、塩づくりの様子をわかりやすく紹介し、塩づくりの体験もできるようになっています。園内には、当時の釜屋煙突がそびえ、塩づくりの苦労がしのばれます。

       

英雲荘(三田尻御茶屋)

三田尻御茶屋

photo by Yamaguchi Prefecture; (C)

所在地; 山口県防府市お茶屋町10-21

英雲荘(三田尻御茶屋旧構内)
(えいうんそう みたじりおちゃやきゅうこうない)
三田尻御茶屋は、承応3年(1654)萩藩2代藩主毛利綱広によって設置された萩藩の公館で、藩主の参勤交代や領内巡視時の休憩、また迎賓に使用されました。昭和14年(1939)防府市に寄贈され、萩藩7代藩主で防府の発展に尽力した毛利重就が晩年住んだことから、重就の法名にちなんで「英雲荘」と命名されました。平成8年から23年まで保存修復工事が行われ、建物の各部分については、それぞれが建設された時代(江戸、明治、大正)にあわせて復元され、全体としては明治~大正期の姿に整備されています。

毛利敬親(もうりたかちか) 

長州藩13代藩主。身分に関わらず優秀な人材を登用し、自由に意見を交わせる環境を造るなどして、当時窮地に陥っていた藩政を立て直し、長州藩は雄藩と呼ばれるまでになりました。そうした風土の中で、吉田松陰や高杉晋作など幕末に活躍した人物が育ち、明治維新を成し遂げる原動力となりました。そうせい候とも呼ばれましたが重要な決定は自ら下したそうです。
 高杉晋作のクーデターが成功した後、幕府への備えとして武備恭順を藩是とし、萩から山口御屋形(山口城、現在の山口県庁)に藩庁を移鎮しました。以降、明治維新への策源地としての機能を果たすことになります。県庁の北側にある香山墓所には毛利敬親の墓と、歴代毛利家墓計7基があり、萩市に所在する旧天樹院、大照院、東光寺毛利家墓所とともに国の史跡に指定されています。

功山寺(こうざんじ)

功山寺

photo by Yamaguchi Prefecture; (C)

所在地; 山口県下関市長府川端1丁目2-3

鎌倉時代の唐様(からよう)建築の典型的遺構を残す功山寺は、嘉暦2年(1327)に開山された古刹で、昭和28年(1953)国宝に指定されました。高杉晋作が騎兵隊を率いて挙兵した寺としても知られ、境内には馬上姿の晋作の銅像もあります。紅葉シーズンには、総門から山門に続く参道が見事です。周囲が木々に囲まれているため、他の紅葉スポットに比べて色づきが遅いのも特徴です。

山口城跡
旧山口藩庁門(きゅうやまぐちはんちょうもん)

旧山口藩庁門

photo by Yamaguchi Prefecture; (C)

所在地; 山口県山口市滝町1-1

現在の山口県庁の西にある、風格のある切妻造り本瓦葺の門です。文久3年(1863)長州藩主毛利敬親は幕末の有事に備え藩庁を萩から山口に移す決意をし、元治元年(1864)に現在の県庁の地に政事堂を完成させました。明治4年(1871)までは山口藩庁門として使用され、その後も山口県庁門として引き続き使用されました。現在も西口として使われています。

露山堂(ろざんどう)

露山堂

photo by おいでませ山口へ; (C)

所在地; 山口県山口市香山町 香山公園内

幕末に長州藩主毛利敬親が山口に藩庁を移した際、藩庁内の一露山の麓に築かれた茶室です。毛利敬親が茶事にことよせて藩士と倒幕の密議を重ねました。明治24年に現在地に移築されました。

毛利氏庭園(もうりしていえん)

毛利氏庭園

photo by Yamaguchi Prefecture; (C)

所在地; 山口県防府市多々良1丁目15-1

毛利氏庭園は、もともと長州藩最後の藩主であった元親の子である毛利元徳(もとのり)の拠点でした。明治維新の後、旧藩内の拠点を山口から防府三田尻御茶屋に移しました。明治3年(1870)に多々良山周辺を買収して多々良御殿を建設し、上京する時以外は、その生涯のほとんどをこの御殿で過ごしたそうです。後に国指定名勝毛利氏庭園として整備され、現在では一般公開されています。

毛利博物館(もうりはくぶつかん)

毛利博物館

photo by Yamaguchi Prefecture; (C)

所在地; 山口県防府市多々良1丁目15-1

毛利博物館は、旧長州藩主毛利氏の本邸を博物館として公開したもので、本館は明治・大正期の建築技術の粋を集めた日本建築です。毛利家代々の宝物・文化財・工芸品を収蔵し、武家社会の歴史を今に伝えるものです。うち国宝は、雪舟筆「四季山水図」をはじめとする4件7点、重要文化財は「紙本著色毛利元就像」をはじめとする9件8,596点、山口県指定文化財は「漆絵枝菊椀(大内椀)」など9件255点に及びます。

萩藩主毛利家墓所(香山墓所)

香山墓所

photo by Yamaguchi Prefecture; (C)

所在地; 山口県山口市香山町 香山公園内

萩市の旧天樹院、大照院、東光寺毛利家墓所とともに長州藩36万石の藩主の墓地です。墓所には13代毛利敬親と夫人、子の元徳と夫人、その子元昭と夫人、毛利本家歴代諸霊の墓の計7基と初代秀就の母周慶寺殿とその他の墓があります。

豊栄神社・野田神社(とよさかじんじゃ・のだじんじゃ)

豊栄神社・野田神社

photo by Yamaguchi Prefecture; (C)

所在地; 山口県山口市天花1丁目1-2

豊栄神社は毛利元就を祀る神社で、明治2年(1869)に萩城内から、野田神社とともに現在の地へ移されました。 野田神社は、毛利敬親とその子元徳を祀った神社です。助友作と伝えられる太刀があり、国の重要文化財の指定をうけています。  

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