この作品は畳の素材をもとに作ったものです。
製作者 石田 昭典
ほうふ花燃ゆ大河ドラマ館「文の防府日和。」
(防府市)
photo by Yamaguchi Prefecture; (C)
ほうふ花燃ゆ大河ドラマ館「文の防府日和。」で展示されました。(※2016年1月11日閉館)
※(画像左)山口県PR本部長「ちょるる」
※(画像右)防府観光マスコットキャラクター「ぶっちー」
大河ドラマ「花燃ゆ」の主役、幕末期に活躍した、吉田松陰の妹、杉文をデザイン化した山口県の公式キャラクターです。幕末の動乱の中で、松下村塾の双璧、久坂玄瑞や高杉晋作や、現在世界遺産に登録されている群馬県の「富岡製糸場」の存続に尽力した楫取素彦と関わりながら明治維新へと進んでいきました。
萩市は世界史上意義深く、急速に日本の近代化を遂げた人材を輩出した松下村塾をはじめ、計5ヶ所「明治日本の産業革命遺産」として世界遺産に登録されました。この遺産群は九州・山口を中心に8県11市に23の資産があります。また、山口市には萩から山口へと藩庁を移鎮された後、西郷隆盛や大久保利通、坂本竜馬などが集まり密議をするなど、明治維新の策源地となりました。現在その史跡などが数多く残っています。
大河ドラマ「花燃ゆ」の放送を契機とし、平成30年の明治維新150年に向けて、幕末維新をテーマとした観光キャンペーン「やまぐち幕末ISHIN祭」を全県で展開しています。食、温泉、歴史文化などの本県の魅力を体感していただく取組を実施するとともに、全国から多くの方に来ていただけるようPRに取り組んでいます。
松下村塾(しょうかそんじゅく)
photo by Yamaguchi Prefecture; (C)
松下村塾 講義室
所在地; 山口県萩市椿東松本市
松下村塾は8畳一室、4畳半一室、3畳二室、土間一坪、中二階付きの木造瓦葺き平屋建ての50㎡ほどの小舎です。松陰は安政4年(1857)から2年半の間、身分や階級にとらわれずに門下生を受け入れ教育しました。久坂玄端、高杉晋作、伊藤博文、山県有朋、など明治維新の原動力となり、明治新政府に活躍した多くの人材がこの塾から輩出されました。
萩反射炉(はぎはんしゃろ)
photo by Yamaguchi Prefecture; (C)
所在地; 山口県萩市椿東上ノ原
萩藩は安政2年(1855)に西洋学所と呼ばれる西洋の学問を研究するための教育機関を設立し、黒船来航に対して兵制の改革、軍備の拡充に努めました。その一環として反射炉の導入にも取り組みました。現在残っている遺構は、反射炉の煙突にあたる部分で高さ11.5m、玄武岩とレンガを使用しています。安政3年(1856)に試験炉として操業されたといわれています。
萩城下町(はぎじょうかまち)
photo by Yamaguchi Prefecture; (C)
所在地; 山口県萩市
1604年に毛利輝元が萩城を築いて以来、260年にわたって36万石の城下町として栄えた萩市は日本有数の史跡都市です。重厚な武家屋敷、夏みかんがのぞく土塀やなまこ壁、鍵曲など、町並みには今なお城下町の風情が色濃く残っています。
恵美須ヶ鼻造船所跡
(えびすがはなぞうせんしょあと)
photo by Yamaguchi Prefecture; (C)
所在地; 山口県萩市大字椿東5168番地地先
嘉永6年(1853)の黒船来航後、幕府は大船建造を解禁し、のちに萩藩に対して大船の建造を要請しました。安政3年(1856)に萩藩初の洋式軍艦「丙辰丸」、万延元年(1860)には2隻目の洋式軍艦「庚申丸」が進水しました。恵美須ヶ鼻造船所跡は、当時の造船所跡地で、現在も大きな防波堤が残っています。
大板山たたら製鉄遺跡
(おおいたやまたたらせいてついせき)
photo by Yamaguchi Prefecture; (C)
所在地; 山口県萩市大字紫福小西見
県内最大のたたら製鉄遺跡で、燃料となる木炭の生産地大板山に立地しています。砂鉄は島根の三隅から北前船で運ばれました。ここで生産された鉄は、安政4年(1857)に長州藩が建造した庚神丸に使われました。製鉄の主要施設の遺構がよく残され、均整の製鉄の歴史を探る貴重な遺跡です。
山口城跡(やまぐちじょうあと)
photo by Yamaguchi Prefecture; (C)
山口城跡 堀
所在地; 山口県山口市滝町1-1
13代長州藩主毛利敬親が萩から山口に本拠を移し築いた居城(山口御屋形)です。高杉晋作が功山寺で挙兵したクーデターが成功し、俗論派から正義派に実権が移ると武備恭順を藩是として第一次長州出兵後に幕府から破却を命じられた山口城へ再び本拠を移しました。防長二州の中心に位置する山口は交通の要衝であり藩領の統制に適し、かつて戦国時代に栄華を極めた大内氏が本拠を構えていた地でもあります。幕府との対立で生じた四境戦争(幕長戦争)では策源地として統率し、4ヶ所の藩境で起きた戦いを勝利に導き、明治維新への幕開けとなりました。現在は山口県庁が築かれており、山口城の表門や堀などの遺構が残されています。
露山堂(ろざんどう)
所在地; 山口県山口市香山町 香山公園内
幕末に長州藩主毛利敬親が山口に藩庁を移した際、藩庁内の一露山の麓に築かれた茶室です。毛利敬親が茶事にことよせて藩士と倒幕の密議を重ねました。明治24年に現在地に移築されました。
枕流亭(ちんりゅうてい)
photo by Yamaguchi Prefecture; (C)
所在地; 山口県山口市香山町 香山公園内
明治維新の志士の集会所で、薩長連合の密議がなされたところです。薩長連合を推進するために、慶応3年(1867)9月薩摩藩の重臣小松帯刀、西郷隆盛らが続々と山口にやってきました。当時道場門前にあった安部半助方の枕流亭の2階で会見し、盟約がなって、幕府を倒す連合討幕軍の結成を誓いました。枕流亭は、その後2、3度移築され、近年修理されて香山公園に移されました。普段は開放されており、自由に建物内に上がることができます。
錦の御旗製作所跡(にしきのみはたせいさくしょあと)
所在地; 山口県山口市後河原
討幕の蜜勅が薩摩藩と長州藩に下り、錦の御旗製作の内命がされました。かつて存在した養蚕所の一室で錦の御旗製作がされ、鳥羽伏見の戦いで官軍の印として薩長軍の陣頭に立てられました。
山口御茶屋跡(やまぐちおちゃやあと)
所在地; 山口県山口市中河原
御茶屋は藩主などの休泊所のことで交通の要衝に置かれました。萩から山口に藩庁を移す際、山口城(山口御屋形)が完成するまでここを仮の政治堂としてました。攘夷決行の際、毛利敬親はここで長州藩を指揮しました。
十朋亭(じっぽうてい)
所在地; 山口県山口市下堅小路112-1
御萩から山口へ藩庁を移転した際に、醤油製造を営んでいた萬代家の離れを藩の役人が宿泊所として利用していました。高杉晋作や久坂玄瑞、桂小五郎など多くの志士が来訪したといわれます。
山口市菜香亭(やまぐちしさいこうてい)
山口市菜香亭 大広間
所在地; 山口県山口市天花1-2-7
菜香亭は幕末に萩から山口に藩庁が移された際に、山口に移り住んだ藩の膳部職(ぜんぶしき; 台所支配人)をしていた斎藤幸兵衛(さいとうこうべえ)が料亭を開き、山口の迎賓館的な役割を持ちました。山口市菜香亭は明治10年頃の創業から平成8年までの間、広く親しまれてきた料亭「祇園菜香亭」を移築復元したものです。井上馨や佐藤栄作など著名人の扁額28枚とゆかりの所蔵品が展示されています。
井上公園
何遠亭(かえんてい) 復元
所在地; 山口県山口市湯田温泉二丁目5番
井上公園は明治の元勲、井上馨(いのうえかおる)の生誕地に築かれた歴史公園です。幕末に「八月十八日の政変」で京都を追われた公家・三条実美(さんじょうさねとみ)ら七卿が都落ちし、井上宅の離れを増築した「何遠亭」に身を寄せ、維新の志士達と倒幕の密議を重ねました。公園内には七卿の碑や井上馨像のほか、近隣に生誕地(中原中也記念館)がある詩人・中原中也の詩碑や山頭火句碑、また温泉街にあることから無料で利用できる足湯もあります。
木戸神社(きどじんじゃ)
所在地; 山口県山口市糸米2-9
木戸神社は木戸孝允(桂小五郎)を祀った社です。木戸孝允は亡くなる前に糸米にある本宅や山林をすべて村民に寄付し、子弟の学資に充てるよう遺言を残しました。人々は大変感謝し、社を建てて孝允の霊を祭りました。