大内家家紋
大内菱

畳でつくった大内菱 畳でつくった大内菱正面

この作品は畳の素材をもとに作ったものです。
製作者  石田 昭典

大内家家紋 大内菱

大内菱 

著名な当主
大内弘世(おおうちひろよ)

周防、長門、石見の守護職。24代当主大内広世は京の街や文化に感銘を受け、京を模倣した街づくりを始めます。山口の地形が京の地形に似ていることから山口に本拠地を移し、大内氏繁栄の基礎を築きました。

大内氏館跡(おおうちし やかたあと)

龍幅寺 山門

photo by Yamaguchi Prefecture; (C)

大内氏館跡 西門 復元 (さいもん ふくげん)

大内氏館跡 西門

photo by TT mk2; CC-BY-SA-3.0, from Wikipedia Commons

所在地; 山口県山口市大殿大路119

大内弘世は大内御堀から山口に政庁を移し、高嶺城を詰めの城とする館を築きました。以降歴代の大内氏の政務の中心となり室町時代「西の京」と謳われるほど繁栄し、西日本最大の都市になりました。発掘調査では、大内氏館は全国でも最大級の規模の守護館であったことが判明しました。大内氏滅亡後には館跡に龍福寺が建てられ、現在ではほとんど面影が残っていませんが、山門の東側竹藪の中に土塁の一部を見ることができます。
(1枚目の画像は龍福寺山門)

 

住吉神社(すみよしじんじゃ)

住吉神社

photo by Yamaguchi Prefecture; (C)

所在地; 山口県下関市一の宮住吉1丁目11-1

古くから軍神・海上の守護神として崇められ、現在も航海安全・産業開運の神として崇敬されています。現在の本殿は応安3年(1370)大内弘世が造進したもので、室町初期の社寺建築として特異な様式をもち、国宝に指定されています。また、拝殿は毛利元就が寄進したもので重要文化財となっています。宝物館にも多数の宝物が展示されています。
 大阪府大阪市の住吉大社、福岡県福岡市の住吉神社とともに日本三大住吉として知られます。

一の坂川(いちのさかがわ)

一の坂川 桜

photo by おいでませ山口へ; (C)

一の坂川 蛍

一の坂川 蛍

photo by おいでませ山口へ; (C)

所在地; 山口県山口市後河原

大内氏は山口を京都に見立ててまちづくりを行った際、一の坂川を賀茂川になぞらえました。大内弘世は京都から嫁いできた姫を慰めようと京都宇治からゲンジボタルを取り寄せて放流したといわれます。今では県庁所在都市の街の中心でホタルの乱舞がみられるところとして、多くの観光客で賑わいをみせています。

八坂神社(やさかじんじゃ)

八坂神社

photo by Yamaguchi Prefecture; (C)

所在地; 山口県山口市上竪小路100

八坂神社は大内弘世が京都より歓請したもので旧県社です。現在の場所は大内教弘が築いた築山館の跡地で、元治元年(1864)毛利敬親が萩から山口に藩庁を移すにあたり、社殿を現在の地に移しました。本殿は国の重要文化財で境内には築山神社があります。7月20日から1週間行われる例祭「山口祇園祭」は、山口で最もにぎやかな祭りです。

       

古熊神社(ふるくまじんじゃ)

古熊神社

photo byTimothy Takemoto; CC-BY-SA-3.0, from Wikipedia

所在地; 山口県山口市古熊1-10-3

古熊神社は大内弘世が京都の北野天満宮に歓請して創建されました。菅原道真の子である福部童子は大宰府にいる父を慕い、京都から大宰府に向かい旅立ちました。しかし旅の道中、山口で夏病みにかかり11歳で亡くなります。その後今市の甘露院に葬られ、古熊神社の創建後には配神として祀られました。8月25日には福部祭、11月22、23日には山口天神祭が行なわれています。

大内義弘(おおうちよしひろ)
大内盛見(おおうちもりはる)

大内弘世の子で25代当主。南北朝時代~室町時代初期の武将。南北朝の合一に多大な功績を残し、大内家の守護領国を周防を中心に6か国に拡大し大内家前期全盛期を迎えました。しかし勢力を増大しぎたため有力守護大名の弱体化を図る足利義満と対立し、堺で応永の乱を起こしましたが敗死しました。その後、26代弟・盛見(もりはる)が兄の菩提を弔うために建てた五重塔が現在山口市の瑠璃光寺に残っています。

瑠璃光寺 五重塔(るりこうじ ごじゅうのとう)

五重塔 雪景色

photo by おいでませ山口へ; (C)

所在地; 山口県山口市香山町7-1

奈良の法隆寺、京都醍醐寺とならび、日本三名塔の一つに数えられる瑠璃光寺五重塔は、嘉吉2年(1442)の建立です。応永6年(1399)の応永の乱で命を落とした大内義弘の菩提を弔うために、弟の盛見が建立したものです。檜皮葺屋根造りで高さ31.2mのこの塔は、明治36年(1903)に国宝に指定されました。大内文化を優雅に伝える山口観光のシンボルです。

宇佐神宮(うさじんぐう)

宇佐神宮

photo by Sanjo; CC-BY-SA-3.0, from Wikipedia Commons

所在地; 大分県宇佐市南宇佐2859

日本三大八幡宮の一つに数えられる宇佐神宮(大分県宇佐市)は大内義弘の勢力下では手厚く保護され、弟の大内盛見は3つの社殿を復興しました。(のちに焼き討ちに合い焼失。)

園城寺(おんじょうじ)
「三井寺」(みいでら)

園城寺 一切経蔵

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所在地; 滋賀県大津市 園城寺町246

滋賀県大津市の三井寺で知られる古刹・園城寺には、もとは大内盛見が建立した山口の国清寺(こくしょうじ)に存在した「一切経蔵」(いっさいきょぞう)が移築されています。国の重要文化財。

洞春寺(とうしゅんじ) 山門

洞春寺 山門

photo by おいでませ山口へ; (C)

洞春寺 観音堂

洞春寺 観音堂

photo by おいでませ山口へ; (C)

所在地; 山口県山口市水の上町5-27

戦国武将毛利元就(もうりもとなり)の菩提寺です。もとは室町時代大内盛見が建てた国清寺(こくしょうじ)で盛見の菩提寺でした。毛利氏が防長二カ国に移ってからは毛利隆元の菩提寺となりましたが、のちに毛利元就の菩提寺となり明治に洞春寺に改称しました。山門は室町時代創建当初のもので全国でも大変貴重な四脚門で国の重要文化財に指定されています。(観音堂も重要文化財に指定。)

大内政弘(おおうちまさひろ)

       

29代当主。室町後期の武将。応仁の乱で山名持豊の軍に主力として加わりました。文化にも造詣が深く、山口を訪れた雪舟などの文化人庇護に努め、山口が西の京と謳われる基礎を築きました。大内政弘が別邸としていた常永寺に雪舟が手掛け築庭したたものが山口市宮野に残っています。

常栄寺 雪舟庭(じょうえいじ せっしゅうてい)

雪舟庭

photo by Yamaguchi Prefecture; (C)

所在地; 山口県山口市宮野下2001

常栄寺は俗に"雪舟寺"として知られています。雪舟庭は、大内氏29代政弘が室町時代中頃に画聖雪舟に命じて築庭したものだそうです。庭の北側に滝を掛け、中央には無染池(心字池)を設け、その周囲には庭石を豊かに配しています。室町時代の枯山水石庭の典型的なもので簡素にして豪放なたたずまいを見せています。

       

雲谷庵跡(うんこくあんあと)

雲谷庵

photo by Yamaguchi Prefecture; (C)

所在地; 山口県山口市天花一丁目12-10

雲谷庵は雪舟の旧居跡で天花(てんげ)七尾山の南麓にあります。雪舟(1420-1506)は室町中期の禅僧です。国宝「山水長巻」などの山水画などをこの庵で描きました。現在の庵は明治17年(1884)に復興されたものです。

               

大内義興(おおうちよしおき)

30代当主。戦国前期の武将。父である大内政弘の家督を継ぎ、勢力を拡大し、周防を中心に7カ国の守護大名となりました。戦国時代では最初に上洛を果たし、室町幕府の管領代となって将軍の後見人となるなど戦国時代前期の織田信長以前の事実上の天下人となり、また、大内文化を創出し、西の京と謳われるまでに繁栄させました。

山口大神宮(やまぐちだいじんぐう)

山口大神宮

photo by Yamaguchi Prefecture; (C)

所在地; 山口県山口市滝町4-4

永正17年(1520)大内氏30代義興が伊勢神宮から分霊を勧請して創建されました。伊勢の神霊をむかえた神社は、この大神宮だけだったので、お伊勢信仰の盛んであった江戸時代には、西のお伊勢様として多くの参拝客があったといわれています。

      

今八幡宮(いまはちまんぐう)

今八幡宮

photo by Yamaguchi Prefecture; (C)

所在地; 山口県山口市八幡馬場22

30代大内義興が文亀3年(1503)に建立したものといわれています。大内館の鬼門にあたることから山口の氏神として保護されてきました。本殿と渡廊で一直線に結ばれている楼門と拝殿は国の重要文化財です。

世界遺産 石見銀山(いわみぎんざん)

石見銀山

photo byYama 1009; CC-BY-SA-3.0, from Wikipedia Commons

所在地; 島根県大田市大森町

江戸時代に書かれた「銀山旧記」大内弘世の父、大内弘幸が北辰星の託宣によって銀峰山の頂で輝く銀を発見したという伝説が記されています。その後、大内氏が採掘を一時中断していた銀山を再発見した博多商人の神屋寿禎(かみやじゅてい)が大内義興の支援のもと再発掘を始めました。「灰吹法」の開発が成功すると、銀の大量生産が行われ、日本は世界の銀の約三分の一を産出し、そのかなりの部分を占めたといわれます。

大内義隆(おおうちよしたか) 

義興の子であり31代当主。中国地方と九州北部まで勢力を拡大し、貿易拠点である博多を獲得するなど大内氏最盛期を迎えました。また、戦乱の京から逃れてきた公家たちや、フランシスコ・ザビエルが訪れるなどし、、山口は一大文化拠点となり、国際色豊かな絢爛たる大内文化が絶頂を迎えました。しかし、文治政治に不満をもつ重臣である陶晴賢(すえはるかた)の謀反にあい、長門市の大寧寺(たいねいじ)で自刃しました。

龍福寺(りゅうふくじ)

龍幅寺

photo by TT mk2; CC-BY-SA-3.0, from Wikipedia Commons

所在地; 山口県山口市大殿大路119

大内氏館跡にある龍福寺は、かつての主君であった大内義隆の菩提寺として弘治3年(1557)に毛利元就の子である毛利隆元が再建したものです。明治14年(1881)に本堂が焼失したため、興隆寺の釈迦堂を移築したのが現在の本堂です。大永元年(1523)の建立と伝えられ、室町時代の特色をよく示しており国の重要文化財に指定されています。

山口サビエル記念聖堂
(やまぐちさびえるきねんせいどう)

山口サビエル記念聖堂

photo by Yamaguchi Prefecture; (C)

所在地; 山口県山口市亀山町4-1

天文20年(1551)フランシスコ・サビエルが大内義隆にキリスト教布教の許可を得て、現在のサビエル公園(山口市金古曽町) に教会をつくりました。翌年の12月24日、宣教師トルレスが日本人信徒を司祭館に招いて歌ミサを行いました。これが日本で最初のクリスマスだといわれています。その史実にちなんでイルミネーションの点灯式や多彩なイベントが行われます。
サビエル記念聖堂は昭和27年(1952)フランシスコ・サビエルの来山400年を記念して建てられたカトリック教会です。平成10年(1998)4月に再建された現在の建物は、2本の高い塔を背負う斬新な形で、平和の鐘の音とともに市民に親しまれています。

サビエル公園

サビエル公園

photo by Yamaguchi Prefecture; (C)

所在地; 山口県山口市金古曽町

イエズス会の宣教師フランシスコ・サビエルが日本で最初の教会を開いた場所です。大内義隆に許可を得て廃寺だった大道寺を拠点に説教を行い、約2ヶ月間で500人もの信徒が生まれたそうです。フランシスコ・サビエルの記念碑と明治時代に山口や萩で布教したビリヨン神父の銅像があります。

筥崎宮(はこざきぐう)

筥崎宮

photo by Pontafon; CC-BY-SA-3.0, from Wikipedia Commons

所在地; 福岡県福岡市東区箱崎1-22-1

日本三大八幡宮の一つに数えられる筥崎宮(福岡県福岡市)は大内義隆により手厚く保護されました。本殿と拝殿は義隆が建立したもので国の重要文化財に指定されています。(画像の楼門は毛利元就の三男、小早川隆景が建立。国の重要文化財。)

不動院(ふどういん)

不動院金堂

photo by Mnd; CC-BY-SA-3.0, from Wikipedia Commons

所在地; 広島県広島市東区牛田新町3-4-9

広島県広島市にある国宝「不動院金堂」(ふどういんこんどう)は日本最大の中世禅宗様の仏殿として知られます。もとは大内義隆が山口に建立した仏殿を広島に移築したものと伝えられており、近年の研究では山口の瑠璃光寺五重塔の隣に存在した香積寺(こうしゃくじ)の仏殿と考えられています。

大寧寺(たいねいじ)

大寧寺

photo by Yamaguchi Prefecture; (C)

所在地; 山口県長門市深川湯本1074

大寧寺は応永17年(1410)大内氏一族によって創建された曹洞宗の古刹です。大内義隆父子が自刃した地で、その墓所があります。桜や紅葉の名所としても有名で、境内は県指定史跡になっています。

 

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